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伸びた髪は邪魔だったけれど、リトアニアは書類に向かい続けた。 元は肩に付くほどだった髪は随分伸びて今や背の中ごろまでにも届こうか。 髪を切る手間を惜しんで働いていたせいで、ただでさえ癖の強い髪は鳥の巣のようになってしまっていた。 まだ終わらない。終わらせるわけにはいかない。 少しでも気を抜いたが最後、この美しい平原はまた容易く切り分けられてしまう。 そう自分に言い聞かせてどれだけの時間が経っただろうか。 先の分割からずっと、こうして眠る間も惜しんで働き詰めている。 本当はこんなことをしても無駄かもしれないということもわかっていた。 かつて自らが消滅しかかっていた頃と同じ心地がする。 焦りと、不安と、虚脱と、諦め。 それでもあの時は、あっさりと自分の運命を受け入れられたけれど今は違う。 見えきった結末を避けたくて、せめて少しでも先延ばしにしたくて、リトアニアは必死だった。 「ポーランド……」 脳裏によぎるのは麦畑を駆けまわるいとしい幼馴染み。 ずっと一緒にいたい。 けれど次にまた同じ悲劇が起きたら、離れてしまうかもしれない。 どちらかが消滅してしまうのかも、知れなかった。 ポーランドはいつでも笑っている。 大丈夫だと、心配することはないと、春の空のようにすがしく言い切って。 けれどリトアニアにその手を取ることはできない。 耐えられなかった。解かれること。消滅すること。 彼の人の消滅を目の当たりにすること。 だって例えば俺が消滅したとして、ポーランドは―― 「リト!」 はじかれたように顔を上げた。 気付けば眉を吊り上げたポーランドの美しい顔が目と鼻の先にまで近づいていた。 突然のことにリトアニアは声も上げられず、ああ、と意味のなさない吐息を押し出した。 「リト、今何時だと思っとるん!?」 「え…」 言われて時計を見るともうすぐ午後四時になろうというところだった。 「三時になったらおやつの時間!いつも言っとるし!」 怒り心頭のポーランドの様子に合点がいって、リトアニアはペンを置く。 三時のおやつはポーランドが一日の中でもっとも楽しみにしている時間で、それを蔑ろにしたのだから当たり前だ。 「ごめんねポーランド。遅くなっちゃったけど、何が食べたい?パルシュキなら作り置きがあるからすぐにでも……」 笑いかけて言うと、ポーランドの表情がますます険しくなった。 無言で腕を掴まれ、乱暴に引きずられる。 凝り固まった肩がごき、と嫌な音を立てたけれど二人とも気にも留めなかった。 ポーランドは一心不乱に歩を進め、リトアニアは常ならぬ様子のポーランドに戸惑うことで精一杯だ。 歩いていると急に視界が明るくなった。 薄明るいだけの室内にこもっていたリトアニアは思わず目を閉じた。 刺すように痛む眼球を宥めながら、少しずつ辺りを窺うとそこは中庭だった。 光に満ちた明るい木々。 真ん中には淡いピンクのクロスが掛かったテーブルセット。 飾られた野の花、ぽわんと良い香りを漂わせるリトアニア気に入りの若草模様のティーセット、そして大きな皿にとんと鎮座しているシャルロトカ。 甘酸っぱい林檎のケーキ。 「これ……全部、ポーランドが…?」 うそ、と呟く前にそうだし、と頷かれた。 震える指が口元を覆う。 居心地悪そうに地面をいじるつま先を見つめるポーランドはリトアニアの様子に気付かず、ぼそぼそと呟く。 「いくら俺でも、あんだけ仕事してるリトに菓子作れとか言わんし……あんなに根詰めてどうしようって言うんよ。そんなんじゃ俺、一緒にいる意味ないし……リト?」 どうしよう、とリトアニアは思った。 塞いだ口の中、奥歯がかちかちと鳴っている。 目頭が熱くて、視界が滲んで……頬にとろりと、熱いものが流れる感触。 涙が止まらなかった。 止められなかった。 ポーランドの優しさが酷く痛かった。 ぎしぎしと胸が軋む音がする。 どうかこの思いが伝わればいいのに。 けれど伝わったらきっと、自分は彼の傍にいられないだろう。 「リト、大丈夫なん?疲れとるん?とりあえず座ればいいし、な?」 されるがままに椅子に座らされても、リトアニアの涙はずっと止まらなかった。 卓さんの謝罪が頭の中を回ってひとつも捕まえることができない。 全部の仕事を取り上げて。 お茶の時間を忘れて。 隣国たちの脅威を何ひとつ知らせないで。 一人で抱え込んで。 満足して。 一緒に笑えなくて。 どちらかの消えたときのことしか考えられなくて。 狂ってほしいと思っていて。 信じることが、できなくて。 ごめん。ごめんなさい。本当に。 「リト、シャルロトカ、焼いたんよ。泣き止んだら食べればいいし。うまくできたんよ。俺リト軽く越えたし。冷めてもうまいんやし、ゆっくり泣きー。な?」 震えるリトアニアの背を撫でながら、暢気なことしか言えない可愛そうなポーランドを想って、そうなるように仕向けた自分を思って、リトアニアはまた泣いた。 だって居なくなったら、狂ってほしいなんて狂った我侭言えるはずない。 |